【山号】
【院号】
【寺号】
【札所番号】
【開基】
【駐車場】
【宿坊等】
【本尊(祭神)】
【ご詠歌】
【ご真言】
【宗派】
【所在地】
【電話番号】
日本書紀にも登場する最古の温泉・道後温泉に近くアクセスがしやすく、
文化財の宝庫であるだけでなく、宝物館やマントラ洞窟など見所が多く
観光地としても親しまれています。周辺にはコンビニやカフェ、お土産屋さんも充実しています。
県道から渡らずの橋を渡り、両側に仏具やお土産や名物を売る店が軒を連ねる
石畳の参道を抜け、国宝の仁王門をくぐると、境内には重厚で趣のある
重要文化財の本堂や三重塔、鐘楼、護摩堂、訶梨帝母天堂などが立ち並びます。
阿弥陀堂、パゴダ(仏塔)、弥勒堂、穴地獄、茶堂大師、大仙窟 地底マントラは
抜けると石手寺裏に繋がっており、少し歩いた所に五百羅漢堂があります。
境内は広く、見所が沢山ありますので公式HPにて、前もって地図を確認して
参拝されるのが良いかも知れません。
石手寺の起こりは神亀5年(728年)、伊予国の豪族・越智玉純(おちのたまずみ)は
二十五菩薩の夢を見て、この地を霊地と熊野十二社権現を祀り、鎮護国家のための
道場を建立します。
道場は聖武天皇(在位724〜749)の勅願所となり、
天平元年(729年)に行基上人作の薬師如来像を本尊に開眼、
法相宗 安養寺として開創されます。
寛平4年(892年)に衛門三郎再来の説話によって現在の石手寺に改められます。
衛門三郎は四国遍路の祖とされており、徳島県 焼山寺の杖杉庵で
入寂したといわれています。
天長年間、伊予国浮穴郡荏原郷(現在の愛媛県松山市恵原町・文殊院)に住む
衛門三郎という欲深い豪農が居ました。
ある時、弘法大師空海とは知らずに門前で托鉢をしようとする、
みすぼらしい僧を追い返します。
翌日も、その翌日も現れる僧に腹を立て、8日目に鉢を叩き落すと
8つに割れ、以降 僧は現れなくなりますが、
8人居た衛門三郎の子供は毎年1人ずつ亡くなります。
打ちひしがれる衛門三郎の夢枕に弘法大師が現れ、
みすぼらしい僧の正体に気付くと改心して弘法大師を追って
四国巡礼の旅に出ます。
順打ちを20回するも会えず、逆打ちをはじめ、
徳島県 焼山寺の杖杉庵で病に倒れ死期の迫る頃、
衛門三郎の元に弘法大師が現れます。
非礼を詫びると弘法大師は望みはあるかと問い、
その問いに衛門三郎は来世で河野家に生まれ人の役に立ちたいと答え、
息を引き取ります。
弘法大師は路傍にあった一寸八分の石に衛門三郎の名を刻むと
左手に握らせます。
翌年、伊予国領主・河野息利(おきとし)に長男が生れますが、
左手を固く握って開かなかったので、安養寺の僧が祈願すると、
左手が開き、衛門三郎の名の刻まれた石が出てきました。
衛門三郎再来として、その石は寺宝になり、
後に安養寺から石手寺に寺号が改められました。
この説話には諸説ありますが、石を持って生まれた長男は
成人後商人となったという伝承もあります。
石手寺は平安時代から室町時代にかけて栄えますが、
永禄9年(1566年)に長曽我部氏の兵火のため寺域の大半を焼失します。
奥の院に愛宕山山頂 愛宕社、伊予郡砥部町の石鉄寺(いしづちでら)。
境内左に、愛宕山への登山口(伊佐爾波神社へ抜ける遍路道)があります。
愛宕山には松山市指定記念物の石手寺古墳第1号・第2号(横穴式石室)も。
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