【山号】
【院号】
【通称・その他】
【札所番号】
【開基】
【駐車場】
【宿坊等】
【本尊(祭神)】
【ご詠歌】
【ご真言】
【宗派】
【所在地】
【電話番号】
〜寺、ではなく〜坊、と着くのは八十八ヶ所中この南光坊だけ。
正式名称は別宮山 金剛院 光明寺 南光坊。
山門を潜り抜けたら、振り返ってみてください。
仁王像ではなく四天王像が配された四国霊場で唯一の珍しい山門です。
表側に持国天と多聞天、裏側に広目天と増長天が配されています。
創建年は推古天皇御代二年甲寅(594年)で、
四国霊場で唯一 大山祇大明神の本地である大通智勝如来を本尊としています。
脇侍には弥勒菩薩と十一面観音を祀ります。
大宝3年(703年)、文武天皇の勅願により伊予水軍の祖、
国主・越智玉澄公が大山積明神を勧請して大三島の大山祇神社を建立した際に
法楽所として24坊の別当寺のひとつとして建立されましたが、
海を渡っての参拝が不便なため、翌々年に現在の今治市に移されました。
和銅元年(708年)(正治年間1199年-1201年という説もに行基菩薩が24坊のうち、
中之坊・大善坊・乗蔵坊・通蔵坊・宝蔵坊・西光坊・円光坊・南光坊の8坊を
日本総鎮守三島地御前と称し、奉祭します。
後に弘法大師空海が法楽をあげ修法し四国霊場に定めました。
天正年間(1573年-1592年)に長宗我部元親の四国平定(天正の兵火)で
8坊は全て焼き払われますが、慶長5年(1600年)に藤堂高虎により
別宮 大山祇神社の別当寺として南光坊のみ再興、
今治藩の祈祷所に定められ、薬師堂が復興されます。
明治初期の廃仏毀釈で大通智勝如来と脇侍の弥勒菩薩像、観音菩薩像を
薬師堂に遷座し、別宮 大山祇神社と分離し、
明治27年(1894年)頃に山号を大積山から別宮山に改めます。
境内には本堂大師堂他、金毘羅堂、薬師堂、弁天祠、白衣観音、筆塚など。
昭和25年(1950年)に書道家として初めて芸術院賞を受けた川村驥山の菅笠が
奉納されています。
慶無所住而生其心 おうむしょじゅうにしょうごしん
応さに住する所無くして而も其の心を生しょうずべし、
何事にも心を執着させることなく、自由に心をはたらかせよ、と書いてあります。
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